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昭和42年04月13日 十三日会



 今日は十三日、十三日会がこのお広前で月々行われ信心の共励が成されます。しかもその信心の共励もどうしたならば、信心が分らして貰うか、おかげが受けられるかと言う事も特に、神様の願いが成就するという、神様の願いが成就する事のための願いが立てられ、そういう信心を、ま共励するわけでございますが。今日は御大祭また落成式のこの事の具体的な打ち合わせやらがある事であろうと思いますけれど。
 そう言う様な事もやはり神様の願いであってみれば、真剣にそのことに取組まなければならないと、まあ思うのでございます。神様の願いがどういうふうに私どもに掛けられておるかと言うと、結局は氏子私共一人一人が真の信心を頂いて、真実神様が求め給うておられるというか、神様が願うておられる、氏子信心しておかげを受けてくれよというおかげをです、私どもが受けるという事に他ならないのです。
 神様の願いと言うのはそれだ、いうならば、私腹を肥やすと言った様な事を申しますけれども、神様が自分さえ助かればえぇと言う様なものではなくてです、ね、氏子が助からなければ、親の助かりも神の助かりもないと言うてお出でられるいわゆる神様なのですから、結局は私どもが真の信心を、真の道を分らしてもろうて、真の道を踏み行わしてもろうて、そして真の信心を体得さしてもらい。
 真実神様が、どうぞおかげを受けてくれと仰る、おかげを受けて行くと言う事に他ならない。それを私共は、そこんところが分らずにただ、自分の私利私欲と言うか、目先目先の事というか、そういうおかげだけを願ったり、頼んだりしておると言う様な、根本的な間違いを、ひとつ正して行こうとというのが、私は十三日会の願いでなからなければならん、とこう思うのです。
 そこで、私どもはいよいよそうした意味においてのおかげを頂かして頂くために、豊な大きな心を頂かしてもらうことの精進が成されていかなければならない、ということです。段々信心を分らしてもらうと私共には何の力も、光もないのである。ね。それこそ私どもは何にもできんのである。そのできない私達の自覚と言うのが出来て、そこからおかげを受けて行こうというのでなからなければなりません。
 これからこれまでのことは私がでける。私にはこう言う力があるという間は、ほんとのおかげになりません。それはおかげが欠けることになる。それだけはおかげが欠けることになる。何にもでけないと、何にもでけないというところから、出発した信心。ま、例えて申しますならば、ね、十五夜のお月さまが煌々としてそれこそ昼をも欺くような光を投げて、光を投げておられる。
 けれども、そのお月さま自体には、何の光もないということなんだ。お月さん、お月様が光輝いてござるのではなくてです、実を言うたら、その神様自体と言うか、いわば太陽の光と言うものを受けて、それがただ反射しておるにすぎないのです。皆さん、私どもはだからお月様のようなものなんです。お月様自体には光はないということ。ね、人間そのものには光がない、力はないんだと。ね、
 神様のおかげを頂かなければ、光を反射することも出きなければ、光輝く働きになることもでけきなければ、神様のおかげを頂かなければ、実を言うたらここ一寸が動かれない私達なのだということを、ね、根底として分らなければいかん。ここんところを分らしてもろうて、ね、そしてその力をいよいよ力たらしめる、光を光たらしめるというところに、信心の精進がある。
 そこで、なら十五夜のお月さまが、昼も欺くような光を投げておられるということがです、ね、月そのものには光がないと。このへんのところからすね、根本的なそのおかげの相違と言うものが出来てくるんですよね。これからこれまでは自分ができるという、これだけの力はあるという、なるほど百斤なら百斤のものを私は持てる人もある、五十斤の人を持てる人もある。
 これは私の力だ、と言うておる人がです、ほんとにその人の力ならば段々年を取って行っても、その力があるはずなんだけれど、年取ってくると、段々力がなくなる。いやその人が段々年を取って行って、病気でもると言うか、ちゅうぶんでもなったら、さあ、十斤のものだって、五斤のもんだって、持つことができないでしょう。だから実を言うたら力も借りもの。神様から頂いておるものなんです。
 電気が消えてしもうて、はあ、自分の目のごと思うとる。ね、電気の有り難さが分っると言う、あれと同じなんだ。本当言うたら、いわば私どもは、真っ暗闇のようなもんだ。神様の光を頂いて、初めてそこに立ちゆきができるのですから、そこんところを、ひとつ本気で分らしてもろうて、そこから、お互いが少しでも力を頂きたい。少しでも力をいわゆる現わしたい。
 少しでも光輝く世の中にしたい、自分にしたい、自分の家庭にしたいという願いが立てられるところからです、ね、そこにその神様へ向かってのその一つの願いと言うことにまあ、なってくるわけです。ですから十五夜の丸いお月さまが、ああした光を、ま、反射しなさることができる、放つなされることが出来る、と言うようにです、私どもの心もやはり丸い丸い十五夜のお月さまのような。
 満な心を頂かなければならないと言う事が解ります。ですからま三日月さんなら三日月さんだけの光なんです。十三夜さんなら十三夜さんだけの光なんです。欠けたら欠けただけ光が減るのです。そこで私共は自分のいわゆる教祖様はそこん所を一心に頼めい、おかげは和賀心にあると仰った。一心に頼まして頂かにゃならん事は、自分の心の中に円満な心、和らいだ心を頂かして頂かなければならんと言う訳なのです。
 そこに神様の光が当たる、その光を反射して、自分の周辺だけではなくて、いわゆる昼をも欺くような、姿形は人間の姿形だけれども、ほんとにあの人は仏様のような人じゃ、神様のような人じゃと、と言うようなことにまでなっていくのでございます。そこで私はまあ、常にそこんところをです、自分の心を、いよいよ円満に、しかも豊に大きゅうならして頂くためのことを皆さんに聞いてもらうわけなのです。
 もう十四、五年も前でございました。私はある方にこう言うお取次ぎをさせて頂いた。妊産婦の方なんです。その方のうちに大きなお座敷の一番正面のところに夜叉の面が飾ってございました。夜叉っていうのがございましょう。角を生やした口が耳までも裂けた、って言った様なあの面なんです。その夜叉の面がお部屋に掛けてございました。ですからその最近、学説的にもそれがそう言われております。
 学の上でその胎教と言う事をいう。子供がお腹の中に宿ったら、ね、出来るだけ美しい心を持たなきゃ美しい子は生まれん。根性の悪い事ばかり考えよると根性の悪い子が出来る。ね、林長次郎とか山本富士子とかと言う様な綺麗な人の写真ばっかり見よると子供が綺麗になる、と言った様なふうな事が言われます。それを胎教と申します。ですからああいう怖いです、夜叉の様な面をいつも見ておったんではです、ね、
 子供のが腹ん中の子供に触る様な事があっちゃならんから、あれを降ろそうと思うと言う事を話されますから私は申しました。降ろす事はいらん信心させて頂くものは、そう言う様な物の見方考え方と言う様なものではなくてです、例えばその夜叉の面を見た時にです、いや怖い顔をしてるなあと角が生えておる、口は耳までも裂けておる。ほんとに身の毛もよだつような怖い顔をした面だなぁと思う時にです。
 私の心の中にそれこそ、口が耳までも裂けた様な、卑しい怖い心はないだろうか、あの角のような角を、ね、いつも生やしている様な事はなかろうか。ね、ああ言う怖い心になっちゃならん、怖い心になっちゃならん、角を生やしちゃならん、卑しい心を持っちゃならんと言う様にです。
 その夜叉の面を見るたんびんに、あなた思いなさったらどうですかって私申しましたら、はぁほんにそうですね、もう私は夜叉の面を見るのが怖かった。あればっかりなんちゅう恐い顔じゃろうか、子供がのいわゆる胎教にです、おなかの子供にさし障るとこう思うておりましたから、あれを取り除こうと思うんだけれど、もういわゆる前からその自分の家にああして飾ってあるから、取り除くこともでけず。
 ほんとに怖い面だと思いよったけれどもです、ほんとに先生そういうような見方をしたらいいですね。そうなんです。信心とはそうなんだ。ね、人の身の、人の不行状を見て我が身の不行状になること、と教祖は戒めておられる。まあの人はなんちゅうだらしない人じゃろうか、あの人は何という根性の悪い人だろうかと、そういう見方にゃおかげはないのです。ほんとにだらしがないということは、嫌なもんだなぁと。
 ほんとにだらしが悪うなっちゃならんなと、自分の心の中にああいうだらしのない心があっちゃならんなといつもそう、自分の戒めにして行けというのです。とにかくあの人はずるい人じゃと、ほんに口ばっかり、とたとえば思うて自分で自分の心を汚すんではなくてです、ね、ならそういうずるい、人から嫌われるような心がです、自分の心にありはせんかと言うことなんです。
 ほんとにこの人は人に迷惑かけてから平気だと、と言うてその人に平気で迷惑かけるようなことをです、その人のことを思う前にです、自分があのように人に迷惑かけておるようなことはなかろうかと、自分自身に思うてみらなければいけんのです。ですからもう自分の周囲にはです、そうした言うならお手本であり、教えであり、いわゆる神の声、神の姿をそこに見ることが出来るのです。
 信心をさせて頂き、信心の目を開かせてもらうと。そこに自分の心はいよいよ豊に大きゆうなっていくことになるでしょうが。いよいよ自分の心が円満になっていくところの精進が成されていくでしょうが。あの人は心のこまーい人じゃなと、ずるい人じゃなーと、そのずるい心が、小さい心が自分の心の中にあるんだと、そのことを通して自分が分らして頂くような精進が日々繰り返されていくうちにです。
 自分の心がいよいよ豊な大きな、しかも満丸い円満な心に、目指しておかげを頂いていくに従ってです、その円満な心に神様の光が反射する。神様の光が当たる。ね、当たっただけ私どもは光を現わしていくことがでけるのです。自分の前が真っ黒、自分の周囲がほんとにこの世は、苦の世苦の世界と言うが、ほんにそうだという人はです、私は心の貧しい人だと思う。いわゆるその、いつも暗闇なんだ、その人の心は、
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